「十字架に進まれる主イエス」  04−04−04
                     マルコ11:1〜11

 エルサレムに入場された主イエスを、群衆は歓迎して迎えました。
主は、その中を進んで行かれます。主は、その歓声が数日後には
沈黙に変わることをご存知でした。
 「十字架につけよ」との叫びが起こる事もご存知です。
主は、数日後には沈黙してしまう人々の弱さを知りつつ、それでも、
その歓声を受け止めながら進んでいかれます。人々の弱さや欠けを
なくしてしまう十字架を見据えながら進まれます。
 主イエスは、満点の欠けのない人を愛するというよりも、頼りなく、
弱く、欠けのある者を満点とみなすために、命を捨てるお方です。

 ヨハネによる福音書の17章に、十字架にかかる前のイエスさまの
祈りが記されています。その祈りの中で、誤解多く、弱さを抱える弟子や、
主に従う人たちのことを「御言葉を守りました」「本当に知っています」
「信じました」とおっしゃいます。驚くべき言葉です。
 しかし、「知らず、信じず、守れない」人を「知り、信じ、守る」人とする
ために主は十字架につかれるのです。その時の人々の叫びに、
頼りなさや弱さがあることを知りつつも、だからこそ、主は十字架に
進まれるのです。
 このような主がおられるから、私たちは自分の信仰の弱さや頼りなさが
あっても、救いの確信をもって歩むことができます。

 主による救いは、神さまに対する知識や主イエスに対する理解が、
ある一定のレベルに達したら与えられるというものではありません。
十字架によって欠けを取り除き、罪ある者を神様の前に立つのに
ふさわしくしてくださる、イエスさまを信じることにかかっています。
その主によって、合格点を与えられるのです。

 
ある時には、主を歓迎し、ある時には沈黙してしまう不安定さを
抱える私たちです。
 しかし、主はそんな私たちの前を、ろばの子に乗って、ゆっくりと、
しっかりと進まれます。
 私たちの脳裏に十字架に進まれるご自分の姿を焼き付けて
くださいます。